「愛されていない」から始まる対話
ある日、「厭世家だから分かるよー」と声を掛けた相手から返ってきた言葉はこうだった。
「うん、愛されてないし、人や世界を愛せないしetc」
その瞬間、僕は戸惑った。ごめん、と内心で思う。僕自身は比較的「愛されてきた」と感じているからだ。
厳しい母親に育てられたが、それは愛情の裏返しだと分かっている。母は高校時代に僕のしつこい説得でようやく態度を緩めたが、そこにも放任やネグレクトはなかった。恵まれている、と自覚している。
そのため、僕と彼らは違う。簡単に「分かるよ」と言ってしまうのは、違うのではないかと思うのだ。
僕が感じる虚無
偉そうな話になるが、僕はかなりの「悟りの域」に立っているつもりだ。人間の生物学的な本質や社会に失望しつつも、それを超えて形而上学的価値や形而下における主観的価値を大事にしている。
自称「積極的虚無主義者」として生きている僕にとって、単なるニヒリズムでは物足りない。価値を見出し、それを消費し、生産していくことに意味があると思うからだ。
「人と繋がりたい!」と思う矛盾
そんな僕でも、時折「人と繋がりたい!」と思う瞬間がある。矛盾しているかもしれないが、それが人間としての本質なのだろう。
相手の「愛されていない」という告白にどう答えるべきだったのかは、今でも分からない。僕たちは異なる道を歩んでいる。それでも、僕の価値観を押し付けるのではなく、彼らの感じている世界を少しでも理解しようと努めるべきだったのかもしれない。
最後に
「人と繋がりたい!」と叫ぶ気持ちは誰にでもある。しかし、それがうまくいかないとき、何が足りないのかを見つめ直す必要があるのではないだろうか。
僕たちの違いを認め合いながら、それでも少しでも心を近づける努力をしてみたい。それが虚無を乗り越え、価値を生み出す第一歩になるかもしれない。
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